レストラン。

待ち合わせのレストランは、駅前の有名なホテルの最上階だった。流石に普段の格好だと、相手に良くないのではないかとヒチョル先輩やイトゥク先輩に言われて、スーツを貸してもらった。今のお給料では絶対に袖を通すことなんて出来ないようなブランドのスーツを着ると、一気に緊張感が増してくる。ドンヘが解りやすく両手をブラブラとさせて、そわそわしていると、イトゥク先輩が優しく話し掛けてきてくれる。ニッコリとした笑顔を見たら、少しだけ緊張がほぐれてきたような気がした。

「ほら、乗って」

「‥‥‥はい」

駅前まで車で送ってあげるよってイトゥク先輩に言われて、少しでも長く知っている人の近くに居たかったドンへは、普段だったら絶対に遠慮をする所を、今回だけはお言葉に甘えさせてもらった。助手席に座ってと言われると、別の意味で緊張してしまいそうだけれど、イトゥク先輩が優しくエスコートしてくれたし、移動中もいろんな話をしてくれたから、良い意味で気を紛らわす事が出来た。次の信号を左折すれば、ホテルの前に着く所で、イトゥク先輩が再度注意をする。真剣な眼差しで見つめられると、何だか恋人のような気分になってしまい、頬が赤くなってしまいそうになる。

「ドンヘ、ヒチョルから聞いたかもしれないけど、何かあったら、ちゃんと意思表示をするんだよ」

ゆっくりと頷くと、直ぐに何時もの笑顔を見せてくれて、思い切り頭をくしゃくしゃされてしまった。そのお陰で、ヒチョル先輩にセットしてもらった髪型が少し崩れてしまう。

「あっ!ゴメン‥‥‥しまった、ヒチョルに怒られちゃう」

「へへ、大丈夫です。ありがとうございます。頑張ります!」

「うん‥‥‥いってらっしゃい」

ホテルに入っていくドンヘの背中を見ながら、イトゥクは小さい声でごめん。って呟いた。

クライアント先の担当者と待ち合わせをしているレストランに着くと、入り口で直ぐにウェイターに引き留められる。予約をしている事と、担当者の名前を告げると、ウェイターは無駄な動きをひとつもせずに、会計の所に置いてある名簿をチェックし始めた。担当者は俺の名前をきちんと受付で伝えていたらしい。合致すると直ぐに笑顔を見せてくれた。

「お待ちしておりました。イ・ドンヘ様ですね。ご案内致します」

案内された席は、夜景が良く見える窓際で個室だという事もあって、景色はものすごくキレイなんだけれど、かえって緊張感が増してしまう。普段だったら、あまりのキレイさに驚いてすごいリアクションを取ってしまいそうなところを、今日はグッとこらえて、精一杯の笑顔を見せた。

「ドンヘ君。こっちだよ」

「あっ‥‥‥あの、その」

ものすごく不機嫌そうな態度で迎えてくれるのかと思いきや、いつもと変わらない。いや、普段よりも機嫌が良いのか、満面の笑みでドンヘを迎えてくれた担当者。かえってその笑顔が不気味といえば不気味なんだけれど、取り敢えず怒っている訳では無いようで、ドンへは少しだけ安心する事が出来た。

「あの、この度は本当に申し訳ございませんでした!!」

「え?‥‥‥あ、ああ、気にしなくても良いんだよ。それよりもほら、早く座って」

一瞬何のことだっけ?といったかのようなしぐさ見せる担当者の不自然な態度を見て、流石のドンへも少しだけ違和感を感じた。あれ、俺ってば大きなミスをして、謝るためにレストランに来ているんだよね?でも、そんな事をストレートに聞いてしまったら、今でこそ機嫌は良いのにも関わらず、急変してしまう可能性がある。だからドンヘは、その気持ちをグッとこらえてしまった。
最初こそ違和感は感じたものの、食事自体はものすごく美味しくて、非常に楽しい時間を過ごすことが出来た。元々担当者は営業もやっていたことがあるという事で、人の心を掴むトークで盛り上げるのは得意だ。ドンヘなんかに比べると、色んな引き出しを持っているから、ドンヘに合わせて、ドンへがどんな話に食いついてくるのかというのも、非常に見極めるのが得意だった。ドンヘも正直言って、普段はクライアントとして会っている人と、2人きりで食事だなんて、どんな話をすれば良いのだろうかと考えていたのだけれど、そんな心配はしなくても良かったんだと感じる。

「そうだ、ドンヘ君はウチで働く気はない?」

「ふえっ?!」

「いや、前々から言おうと思ってたんだけど、どうかな?」

何の脈絡もない所から、突然お誘いを受けてしまい、ドンへはどう返したらよいのか解らずにしばらく呆然としてしまった。しかも前々から思っていたとは、俺の一体どこを気に入ってくれているのだろうか。ついさっきまでニッコリとした笑顔で色んな話題をしてくれた担当者が、急に仕事の時のような真面目な顔を見せる。その瞬間に、ヒチョル先輩とイトゥク先輩が再三注意してくれた言葉を思い出した。

———-ドンヘ、嫌だと思ったら‥‥‥

そうか、もしかしてヒチョル先輩とイトゥク先輩は、この事を言っていたのかな。ドンヘが回答に困って、チラリと担当者の顔を覗き見ると、視線に気付いたのか直ぐに優しい笑顔を見せてくれた。大丈夫、此処で今すぐに返事をする必要は無いからと言われ、本当だったら直ぐにでも断らないといけない筈なのに、どうしてもごめんなさいの一言が言えずに、そのままゆっくりと頷いてしまったんだ。

「じゃあ、また答えを聞くために、こんな感じで会ってくれるかな?」

「あ‥‥‥は、はい」

どれだけ考えても、俺はクライアント先の会社に行くつもりはない。だったら今すぐここで断るべきなのに、どうして俺は変に答えを延ばしてしまったのだろう。こんなことをしたら、余計相手を傷つけるだけなのに。面と向かってはっきりと質問されると、どうしても返答に困ってしまう。しかも話は、自分の今後の人生に関わる大切な問題だ。
いや、それでも俺は、こんな俺を採用してくれた今の会社にきちんと恩を返したい。ヒチョル先輩やイトゥク先輩、カンイン先輩といった面白くて頼れる先輩に囲まれて働きたいし、何よりもヒョクと離れるのはやっぱり辛いよ。こんなにも未練があるのに、どうして俺は一時的な感情で辞表なんて書いてしまったのだろう。自分の軽率な行動がバカバカしくて、思わず涙が溢れそうになる。
いや、今目の前で泣いてしまったら、相手を不安にさせちゃう。そう思ったドンへは、目の前に置かれていたワイングラスを一気に飲み干すと、気分を切り替えるためにお手洗いへと席を立った。

「ふぅ‥‥‥あ、あれ?」

鏡の前で自分の髪形をチェックしていると、不意に視界がグラリと揺れたような気がした。いや、あまりお酒なんて飲んでいない筈なんだけれど。一気に瞼が重くなって、ドンヘはその場で倒れ込んでしまった。

 

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