従順。

ドンヘと別れた後、会社が始まって30分も経っている事に気付いたヒョクは、流石に電話をしないといけないと感じてしまう。まぁ、一社会人としては当然の心理なのだけれど。ヒョクが覚悟を決めて会社に電話を掛けると、直ぐに同僚が出た。同僚が大きな声でヒョク!と叫ぶもんだから、後ろから変われ!!と上司が怒鳴っている声が聞こえてくる。嗚呼、やっぱりこのまま通話を切ってしまおうかと思った瞬間に、上司に第一声でこっぴどく怒られてしまった。見事に現実を目の当たりにしたヒョクは、やっぱ掛けなきゃよかったって思うんだけれど、でも心の何処かで良かった、いつもと変わらないやって思ってしまって、怒られているのにも関わらず、変な笑みがこぼれてしまう。
電話越しで何度も何度もすみませんでした!!と謝っていると、上司もつい本音がポロリとこぼれてしまい、生きていて良かった。なんて気持ち悪い事を呟いた。直ぐに我に返って、とにかく早く来い!!と最後に叫ばれて、通話を一方的に切られてしまう。何で死んでいるなんて思われたんだろうって、その時は気付かなかったけれど、独り暮らしをしていて、毎日ちゃんと出勤をしているヤツが、突然無断で来なくなったら、最悪の事態を考えちゃうだろって後で同僚が教えてくれた。確かにその通りだ。実はヒョクがあのタイミングで電話をしていなかったら、まさに今から上司が俺の部屋に行こうとしていたらしい。部屋まで来られて、実は犬を見ていたら遅刻しちゃいましたなんて上司にバレたら‥‥‥

「これじゃあ、絶対に会社に行かなきゃいけないよな‥‥‥ドンヘ、夕方まで我慢してろよ」

ヒョクは最後にもう一度、段ボールが置かれている路地をチラリと見て、慌てて走って会社に向かっていった。

「何だよ!!電話ではあんな心配そうにしてたのにさ!!」

「愛情だよ愛情。ほら、文句は言わないで、あと少しじゃん」

「今日は定時で帰りたかったのに‥‥‥」

「定時って‥‥‥何?彼女でも出来たの?」

会社に着いた後、上司に呼び出されたヒョクは、電話でも叱られたのに、更にこっぴどく説教をされてしまった。さっきの携帯電話での会話を録音しとけば良かったと思えるくらい、何事も無さ過ぎて、少しあっけにとられてしまう。まぁ、クビにならずに済んだし、確かに悪いのは俺だけれども、少しくらい優しくしてくれても良いじゃないかなんて思っていたら、そんな不満が見事に顔に出てしまったらしい。上司に直ぐに勘づかれてしまったヒョクは、残業を命令されてしまった。

「遅刻をした分はしっかり働いて帰れよ!!」

「ええっ!!」

これじゃあドンヘを迎えに行くのが遅くなってしまうじゃないかとソワソワしていると、同僚にしつこく彼女が出来たのか?と問い詰められてしまったので、仕方なくヒョクは今日の一連の出来事を話した。すると、今まで知らなかったんだけれど、同僚も部屋でイヌを飼っているらしく、ものすごく話に食いつかれてしまった。

「きっと前のご主人様に、ここでずっと待っててとか言われたんだよ。頭のいい子なんだね」

「‥‥そっか。頭が良いのか、でもさ、それって逆に可哀想だよな」

「人間の目線で考えたらそうかもしれないけど、ドンへは必死に生きてるんだから、可哀想とか言ったらダメだよ。それに、そのお陰でヒョクと出会えたんだから。」

イヌは従順だとは言うけれど、それを逆手に取るなんて、いや、此処でずっと待ってろなんて言われたとは限らないけど。考えれば考える程、心がキュッと締め付けられてしまう。じゃあ尚更、俺も今朝ドンヘに待っててなんて言っちゃったんだから、早く迎えに行ってあげないといけないよな。同僚がもう帰って、早く迎えに行ってあげなよって言うんだけれど、俺のために一緒に残業をしてくれている同僚を置いて、じゃあ帰るね。とも言えずに、気が付いたら、遅刻分を大幅に超えて、1時間以上も残業してしまった。

「ヒョクもドンヘと負けないくらい可哀想な性格をしていると思うよ」

「会社に従順って事か?バカ、本来残業をするべきなのは俺だろ‥‥‥付き合ってくれて、ありがとう」

「あ、ちょっと待ってて。待たせないから」

早くドンヘを迎えに行きたいという気持ちを知っているからこそ、待たせないからと一言だけ伝えて、同僚は会社の近くにあるコンビニにスッと入っていく。ドンへはちゃんと、段ボールの中で待っているのかなって思っていると、帰って来た同僚が袋からペット用のおやつを取り出してヒョクに手渡してくれた。何でもイヌはみんなコレが大好きらしい。お腹空かせているだろうから、絶対に喜ぶと思うよ。って言われて、何度も何度もありがとうってお礼を言った。定時で上がっていたら、一緒にドンヘを見たかったけれど、今日はこれから彼女とデートなんだよね。って言いながら同僚はあっという間に去っていく。そうだ、同僚は彼女もいて、非常に幸せなヤツだったんだ。
彼女。俺にも彼女が出来たら、今みたいに早くドンヘに会いたいっていうような気持ちになるのだろうか。残念ながら独り身である俺は、仕事が終わったら真っ直ぐに家に帰って、ゲームをして明日が来るだけの毎日を送っている。それが当たり前の生活だから、特別に寂しいとも思わないけれど。さて、そんな事を考えている余裕はない。早くドンヘを迎えに行ってあげなきゃ。ヒョクは慌てて路地裏に走っていき、ドンへの入っている段ボールの中身を覗いた。

「ドンヘ!!あれ‥‥‥?」

段ボールの中には、今朝ヒョクが牛乳を入れてあげたお皿が倒れていて、中身が零れて段ボールを湿らせていた。牛乳を全部飲まないで、何処かに行っちゃったのかな。それとも、きっと良い人に巡り会って、拾われていったのだろうか。そうであってほしい、俺じゃなかったとしても、ドンヘには幸せになってほしいと思うから。

「‥‥幸せになれよ」

呟いた言葉とは裏腹に、心にぽっかりと穴が開いたような、何とも表現しようがない切ない気持ちがヒョクの心を襲った。

 

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