そして夢のように。

「ん‥‥どうした?何処か具合でも悪いのか?」

「‥‥‥お風呂、ヤダ!!」

急に何処か具合でも悪くなったのかと思って、ヒョクがそっと男性の肩を叩くと、過剰に反応をされてしまった。身体を震わせて、お風呂に入りたくないなんて、もしかして本当に見られたくない所にアザでもあるんじゃないだろうか。こうなったら、無理やりにでも身体を調べてやろうかとか思ったんだけれど、その場でうずくまって、顔を青くして震えている姿を見たら、そんな気持ちも何処かにいってしまった。

「‥‥‥ごめん。キライなら、入らなくてもいいよ」

そっと男性の頭に手を乗せて、優しくポンポンと叩く。すると、チラリと目線だけをヒョクに向けて、ほんと?って小さい声で呟くから、思わず引き寄せて抱き締めてしまった。全くもって無意識の行動で、抱き締めた後に何をしているんだろうって我に返ると、急に両腕に緊張が走ってしまう。違うんだ、って否定をしようとした瞬間、男性もヒョクの事を思い切りギュウ。って、抱き締めてくるから、益々緊張をしてしまい、ヒョクは不覚にも、男性に見せられないくらい顔が真っ赤になってしまった。

「あ、あのさ、お前名前なんて言うんだ?」

「な‥‥‥まえ?」

自分から抱き締めておいて何だけれど、直ぐにでも離れないといけないような気がする。そう思ったら、俺はこの男性の名前を知らない事に今更気が付いた。そうだ、部屋に居れて、チャーハン食べさせて、お風呂に入る入らないなんてやり取りをしていたら、うっかり自己紹介をするタイミングを逃していた。いつまでもお前とか犬とか男性とか、嗚呼、後半は俺が勝手に思っている事だけれど、そんな呼び方をしていたら流石に失礼に当たるよなって思ったから、抱き締めている腕を離すと、ヒョクが慌てて先に自分の名前を名乗った。

「俺はイ・ヒョクチェ。ヒョクでいいよ」

「俺‥‥‥なまえ、わかんない」

男性はヒョクの名前を聞いた後、少し考える素ぶりを見せる。でも、直ぐに小さい声でわかんないって呟いた。ヒョクも、もしかしたらわかんないって言うだろうなって心の何処かで感じていたらしい。だから、もう驚きとかいう感情は無くて、何も言わずにただ、じっと男性の目を見つめていた。
だって、この男性のおかしな行動。人間らしさの欠片もない犬のような言動は、かなり異常としか言えない。かなり無理くりではあるけれど、記憶喪失とかそんな類の病気とかに掛かっているのなら、幼児退行じゃないけど、こんな症状になる人もいるのかなとか、正直ちょっと思ったりしたんだ。

「そっか、名前‥‥‥わかんないのか」

「う‥‥ごめん」

「大丈夫だよ。じゃあさ、えっと‥‥‥ドンヘ。って呼んでも良いかな?」

「どん‥‥‥へ?」

咄嗟に出た名前がドンヘだった。今朝、段ボールに入っていた可愛い仔犬。もしかして、ドンへが人間だったら、こんな感じなのかなって思ったら、妙にしっくりくるというか。どうせ明日起きたら、病院で何かしらの届けが出ているかもしれないから、警察まで連れて行かなくちゃいけない。そうしたら、本当の名前も、お前の事を探している本当の家族に教えてもらう事が出来るんだし。だったら、今日くらいは俺の呼びたい名前で、お前の事を呼んでも良いだろうって軽い気持ちで思ったんだ。
ドンヘと呼ばれた男性は、目をぱちくりとさせて、急にきょろきょろと辺りを見渡す。ほら、そんな仕草が犬っぽくてたまらないんだよな。ヒョクが思わず、ドンへの頭に手を乗せて、グリグリグリと撫でる。すると、さっきまでお風呂を嫌がって顔面蒼白になっていた筈のドンへの顔が、ふにゃっと柔らかくなって、ニッコリとした可愛らしい笑顔を見せてくれる。

「ヒョク。俺、ドンヘ、ドンヘって言うの。そう、ドンヘだよ!!」

「ん?何だよ。そんなに嬉しいのか?」

「う、違うの、俺、ドンヘなの!!ドン‥‥‥」

男性が自分の名前をドンヘって叫んだ瞬間、両手で頭を抱えて、痛そうな表情を見せる。その場にうずくまって、何かに耐えているようで、ヒョクは慌てて男性の傍へと駆け寄った。
男性の肩に手を乗せた瞬間、ちょっと男性の存在が、靄が掛かって薄くなったのは、俺が眠かったり、急に目が悪くなったとかいうのではないと思う。一体どうしたんだろうと思って、必死に目を擦って、目を細めて男性の事を見るんだけれど、不思議な事に、目の前の男性は白く透けて、消えかかっているように見えた。

「あれ、どうした‥‥‥ドンヘ?」

「う‥‥‥思い出した‥‥俺、ドンヘだ‥‥‥あのね、ヒョクに会いたかったの。お礼、言いたかったの。ありがとって‥‥‥」

ありがとう。その言葉を呟いた瞬間、まるで夢でも見ていたのではないかと思わせるくらい自然に、ドンへは俺の前から消えていった。そして、何故俺がさっき迎えに行った時に、段ボールの中にドンヘが居なかったのか。その最悪の可能性を考えると、居てもたっても居られなくなって、ヒョクは部屋から飛び出していた。

 

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