やっと気持ちが言えた。

「ヒチョル?‥‥‥ほら、早く出ておいで」

イトゥクが優しい声で何度も何度も木に話し掛ける。けれども、今更どんな顔をして出てきたら良いのか解らないヒチョルは、イトゥクの声に応えることが出来ずに、木の陰から一歩も動けずにいた。しばらくすると、イトゥクの声は全く聞こえなくなってしまった。愛想を尽かして、イトゥクが帰ってしまったのではないかと思ったヒチョルが、慌てて木の陰から飛び出す。すると、ヒチョルの目の前には、優しい笑顔のイトゥクが立っていた。

「‥‥‥やっと出てきてくれた」

「!!」

「寂しい思いをさせてごめん‥‥‥ごめんね。もう絶対に離さないから」

ヒチョルを優しく抱き締めながら、何度も何度もイトゥクは謝り続けた。そんなイトゥクの姿なんて、見たくない。そんな思いから、ヒチョルはものすごく心が締め付けられてしまう。どうして?悪いのは俺なのに。どうしてイトゥクが謝るんだよ!!って、声に出して言ってやりたい。でも、まだ心のどこかで、突然人間の言葉でイトゥクに話し掛けちゃったら、気持ち悪がられて、嫌われるかもしれない。そんな事を思うと、ヒチョルは何も言う事が出来なかった。
イトゥクはしばらくの間、ヒチョルを思い切り抱き締めたまま、その場で立ちすくんでいた。イトゥクの手がかなり震えていて、ヒチョルが少しもどかしくなると、不意にヒチョルの頬に、まるで雨が降って来たかのような大粒のイトゥクの涙がポタリポタリと落ちていく。

「バ、バカ‥‥‥!!なんで、お前が泣くんだよ!!」

何でイトゥクは何時も、こんな俺みたいなバカなヤツの為に、一生懸命になれるんだよ!!

「‥‥‥っ、あ‥‥」

無意識だった。気が付くとヒチョルも、目を真っ赤にして涙を零しながら、イトゥクに向かって叫んでいた。そうだよ。イトゥクは普段から、よく映画やドキュメンタリー番組を自宅で見ているだけでも、ちょっとした感動シーンが流れたりすると、目を真っ赤にして泣き崩れるくらいの涙もろいヤツじゃないか。そうだ、イトゥクの性格なんて、何時もずっと傍で見ていたんだから、解っていた筈なのに。

「ヒチョ‥‥‥ル?」

「っ‥‥‥あ、あ‥‥‥」

「やっと、ヒチョルの声が聞けた‥‥‥ずっと、聞きたかったんだよ」

ヒチョルはイトゥクに優しく抱きかかえられたまま、もう二度と帰る事は無いだろうって思っていたマンションへと帰る。そんな事を思っていたもんだから、なんだか気恥ずかしくなってしまって、ヒチョルは優しくリビングのソファに下ろされても、身動きを取る事が出来なかった。また、ヒチョルが緊張をしていた理由はそれだけでは無かった。イトゥクの涙を見たら、つい反射的に人間の言葉をしゃべってしまった事。つい勢いで話してしまったけれど、あれから普通に話し掛けても良いのか解らなくなってしまって、黙っているしかなかったんだ。こんな時にヒチョルは、ドンヘのバカみたいに明るくて、人の都合なんてお構いなしで、平気で話し掛けてくるような性格が羨ましいと思ってしまう。俺は今更、どんな顔をしてイトゥクに接すれば良いのだろう。

「ヒチョル‥‥‥お腹空いてる?ご飯にしようか」

「‥‥‥」

「‥‥‥もう、俺と会話してくれないの?」

小さい声でそう呟くイトゥクは、どこか寂しそうで、放っておいたらまた泣き出してしまいそうだ。イトゥクって実は、俺が思っている以上に策士なのだろうか。無意識とは思えない程、さっきから俺の心を絶妙に突いて、罪悪感を感じるような事ばかりしてくるんだもの。

「それとも、俺が何時からヒチョルの事に気付いていたのか、気になる?」

「っ‥‥‥そうだよ!!俺が人間になれるって事に、気付いてたのか?」

「え、嘘!!やっぱり話せるだけじゃなくて、人間にもなれるんだ?!」

ヒチョルは本当に心の奥底から、墓穴を掘ったと思った。俺がさっき、うっかり話してしまった瞬間、イトゥクがずっと俺の声を聞きたかったって言ったから、何かに気付いているんだとは思ったんだけれど。ああもう、今日の俺は一体どうしちゃったんだろう。さっきから、イトゥクのペースに流されてばかりじゃないか。ヒチョルがイトゥクの顔をちらりと見ると、キラキラとまるで少年の様に輝いた眼差しで、ヒチョルの事を真っ直ぐに見つめている。なんだろう、この視線のキラキラ具合がドンヘに似ている気がして、思わず蹴ってしまいたくなる。
俺のご主人様は、クールで、普段は何を考えているのか全く読めなくて、仕事が出来る最高の大人の男性‥‥‥だったはずだ。でも今、俺の目の前にいるご主人様は、俺に早く人間になって欲しいって、解りやすく顔に書いてあるキラキラとした少年だった。

もう、どうにでもなれと思った。ヒチョルが覚悟を決めて、イトゥクの前で人間の姿になる。残念ながら、アニメの様に変身をする時に、大きな煙が出たり、音が出る訳じゃないから、本人の覚悟とは裏腹に、至って普通に人間の姿になってしまう。でも、ヒチョルが人間の姿になった瞬間、思い切りイトゥクに抱き着かれてしまって、ヒチョルの心臓は今にも飛び跳ねてしまいそうになり、顔が真っ赤になってしまった。

「な、な、なっ‥‥‥なんだよ!!い、いきなり抱き着くなよ!!」

「だって、ヒチョルが人間になったんだもん!!」

「はぁ?いや、だから‥‥‥って、何だよ、また泣くのか?!」

イトゥクがあまりの感動で、またポロポロと涙を流す姿を見て、ヒチョルは慌ててしまう。ご主人様には何時も笑顔でいて欲しい。だから、泣き顔なんて見たくないのに、今度は喜びのあまり泣いてしまうなんて。

「‥‥‥泣くなよ」

ヒチョルが舌をペロリと出すと、イトゥクの頬を優しく舐める。涙をぬぐうようにして、顔全体を舐めていたら、くすぐったく感じたのか、イトゥクがようやく泣き止んで笑顔を見せてくれた。

「はは、ヒチョル‥‥‥やめろって、猫みたいだよ」

「みたい、じゃない‥‥‥俺は、猫だよ」

「そうか、うん、そうだったね」

「っ‥‥‥ん!!」

イトゥクが一瞬、恥ずかしそうにしながらも、もう一度ヒチョルのぬくもりを確かめるために、思い切り抱きしめる。そして、真っ直ぐに目線を合わせると、何時もみたいに優しく唇にキスを落とす。イトゥクからのキスは、イトゥクが俺の事を一番に考えてくれているのがダイレクトに伝わってくるから、ヒチョルが一番大好きな瞬間だ。ヒチョルはイトゥクからの変わらないキスをもらった瞬間、俺が人間になっても、猫になっても、イトゥクはイトゥクである事に変わりないって事に気付かされる。気が付くとヒチョルは、無意識のうちにポロポロと涙を零していた。

「イトゥク‥‥‥好き、好き‥‥‥」

「うん、俺も好きだよ」

「‥‥‥もっと、沢山言って」

「うん」

お互いに飽きるほど、好きって言い合いながら、何度も何度も唇を重ねる。ヒチョルはもうダメだって思った。イトゥクが俺の目の前から居なくなったら、絶対にもう生きていけない。じゃあ俺は、これからどうやって生きていけば良いんだろう?そんなことを不意に思ってしまったのは、イトゥクの恋人の姿がふと脳裏に過ってしまったから。
俺の好き。は愛しているの好き。でも、イトゥクは?ペットとしての好き?こうやって唇を重ねてキスをするのも、スキンシップの一つなのかもしれない。そう思った瞬間、ヒチョルはイトゥクの事を拒むようにして、両手で思い切り突き飛ばしていた。

「‥‥‥ヒチョル、どうしたの?」

お互いに好きって言い合って、キスをしていたのにも関わらず、ヒチョルに一体何があったのか、突然突き飛ばされてしまったイトゥクは、一瞬何が起こったのか理解をする事が出来ずに、しばらく呆然としていた。もしかしたら、ヒチョルにしつこいって思われてしまったかもしれない。だから直ぐにゴメンって謝ると、彼の顔を真っ直ぐに見つめる。でもヒチョルの表情は、イヤって言うよりも、何かを必死で我慢しているようで、今にも泣きだしそうだった。

「‥‥‥っ、イ、イトゥクには恋人がいるだろ?だから、その、キ、キスとか、そういうのは、俺が猫の姿になってからのほうが‥‥‥っ」

「へ‥‥‥?」

イトゥクは頭の回転がとにかく早い。それが幸いして、今の会社でも年齢の割にかなり良い役職に就いている。まぁ、だからこそ、ここ最近仕事が忙しくて、全然家に帰って来れないから、ヒチョルに寂しい思いをさせてしまっているんだけれど。イトゥクは、ヒチョルが突然「恋人」という発言をした瞬間、今日の昼間に、どうしてあんなところでドンヘ君を見かけたのかというのを瞬時に理解する事が出来た。そうだ。あの時ドンヘ君は「ヒチョル」って叫んでいたじゃないか。どうして俺は、直ぐにその事に気付いてあげられなかったんだろう。
彼の今日の、全ての行動を理解した瞬間、イトゥクはヒチョルの事がものすごく愛おしくなってしまった。でも、こんな緊迫した雰囲気なのにも関わらず、変に笑顔を見せてしまったもんだから、逆にヒチョルは、どうしてイトゥクが笑っているのかが全く理解出来なくて、顔を真っ赤にしてしまう。そして、思わず何だよって言おうとした瞬間、ソファの上に思い切り押し倒されてしまって、身動きが一切取れなくなってしまった。

「ヒチョル」

「‥‥‥っ、あ‥‥」

瞳を真っ直ぐに見つめられて、視線を逸らす事が出来ない。そして、捕まれた両腕に力が込められていくのが伝わっていく。ヒチョルは、逃れたくても絶対に逃れることが出来ない状況に、相手がイトゥクであるにも関わらず、恐怖を感じてしまった。怖い、どうしよう、昔の事なんて、思い出したくないのに。

ヒチョルの身体が震えているのに気付いたイトゥクは、慌てて掴んだ手を離すと、優しく包み込むようにして抱き締めた。

イトゥクのぬくもりはとても暖かくて、包まれているとものすごく安心する事が出来る。だから、一瞬恐怖を感じてしまったヒチョルも、直ぐに落ち着きを取り戻す事が出来た。何となくただ抱き締められているだけだと、もどかしく感じてきてしまい、ヒチョルが両腕をイトゥクの腰に回す。すると、ホッと一安心をしたイトゥクがゆっくりと力を抜いて、改めてヒチョルの目を真っ直ぐに見つめた。

「ヒチョル‥‥‥カンインは恋人なんかじゃないんだ。信じて欲しい」

「‥‥‥っ」

「えっと、今日、俺とカンインが一緒に居るところ、ドンヘ君と見たんだよね?」

何の心の準備も出来ていない状態で、突然イトゥクから真実を告げられてしまったヒチョルは、イトゥクとカンインっていう男が恋人同士では無かったという事よりも、俺が今日、イトゥクの後をつけていたっていう事に気付かれてしまった事のほうがショックで、何も答えることが出来なかった。イトゥクも、流石にいきなり弁解をしてしまったのは良くなかったと感じたのか、色々と言葉を並べるんだけれど、ヒチョルがあまりにも何もリアクションをしてくれないので、不安を感じてしまう。

「えっと‥‥‥ヒチョルもしかして、怒ってる?俺の言葉、信じられない?」

「わ、あああああっ!!」

不安そうな表情を見せながら、ヒチョルの顔色を窺うイトゥクと目が合った瞬間、ヒチョルはもう、パニックになってしまい、今度は力を思い切り込めてイトゥクを突き飛ばす。そして、ソファの隅に逃げるようにして駆け込むと、その場で小さく体育座りをして、ちょこんと丸くなってしまった。

「ヒ、ヒチョル‥‥‥?」

「バカ!!来るなっ!!」

「何で?俺の事、嫌いになった?」

「ちがっ‥‥‥ば、か‥‥‥」

顔をぶんぶんと振って、更に丸くなってしまったヒチョルを、思い切り引き寄せて抱き締めて良いのか解らない。ヒチョルは泣いているのか、身体が少し小刻みに震えていて、イトゥクは居た堪れない気持ちになる。しばらく身動きを取る事が出来ずに、そのまま立ちすくんでいると、小さい声でヒチョルが独り言のように呟いた。

「だ、だって‥‥‥恥ずかしい、だろ‥‥‥」

そう言いながら、そっと俺の顔色を窺うヒチョルの顔はまだ真っ赤で、イトゥクは安堵のあまり笑顔がこぼれてしまう。良かった、ヒチョルに嫌われている訳じゃない。しかも、こんなにも俺の事を愛してくれているなんて。どうしよう、やっぱり俺はヒチョルの事が大好きだ。イトゥクは、ヒチョルの腕を思い切り掴むと、力いっぱいに抱き締めて、大好きだよ。って耳元で囁く。ヒチョルの耳がピクピクと動いて、くすぐったそうに反応を示すと、顔だけじゃなくて耳まで真っ赤になってしまった。

「っ、ってか、気持ち悪くねぇの?猫が人間になるなんてさ」

「どうして?俺は、ヒチョルと一緒に暮らし始めるようになってから、ずっとヒチョルが人間なら良かったのにって願ってたんだよ?」

「え‥‥‥」

「しかも、俺の理想通りなんだもん。気持ち悪いどころか、嬉しくて仕方ないよ!!」

ヒチョルが毎日毎日願っていた想い。イトゥクも同じだったんだって事に気付いた時、ふとヒチョルは人間の姿になった時に、神様が俺に素直になれって言った事を思い出した。なんだよ、アイツはイトゥクも俺が人間になる事を望んでいた事に気付いていたから、あんなことを言ったのか。早くイトゥクに寂しいって言えば良かった。好きって言葉にして伝えれば良かった。本当は早く素直になりたかった。
ヒチョルはイトゥクに負けないくらいの強さで、思い切り抱きしめ返すと、両手でしっかりとイトゥクの顔を掴んで、唇を奪うように激しくキスをする。ヒチョルの突然の行動に、イトゥクが流石に少し驚いてしまい、体勢を崩すと、今度はイトゥクがソファに押し倒されてしまった。でも、そんなのはお構いなしだとでも言うかのように、そのままヒチョルがイトゥクのお腹の上に乗りかかると、ちょっと小悪魔っぽい悪戯な笑顔をイトゥクに見せながら、ヒチョルが囁くんだ。

「俺、イトゥクが思ってる以上に寂しがり屋だからな?‥‥‥覚悟しろよ」

大好きだから、ずっと俺の傍に居て。なんて、まだ恥ずかしくて言えないから、これがヒチョルの精一杯の愛情。でも、イトゥクには十分に伝わったらしく、いつものキレイな笑顔をヒチョルに向けると、たった一言だけ、愛してるよって答えてくれた。

 

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