ご主人様失格。

ヒチョルは今日も公園で、独りでドンヘが来るのを待っていた。あれから数日、ドンヘは一度も公園に姿を現していない。あの日の事を、きちんとドンヘに謝りたいのに、もう二度と公園には来ないつもりなのだろうか。

「‥‥‥バカはバカらしく、何も考えずに公園に来いよ」

そして早く何時もの、あのバカ面で、俺をイライラさせてくれよ。そうじゃなきゃ、悲しくて涙が出てくるだろ。ヒチョルが少し涙ぐんで、鼻をすすると、空気の流れに乗って、ドンヘのニオイがしてきた。ようやく来たかって思って、慌てて走ると、そこにはドンヘではなく、ドンヘのご主人様が立っていた。
ヒチョルは一瞬躊躇ってしまった。だって、あの日俺はこっそりドンヘ達の様子を見ていたから、ドンヘのご主人様の姿も見ているけれど、相手は俺の姿を見ていない。しかも今俺は、人間の姿をしている。このまま突然話し掛けてしまったら、絶対に変な人だって思われてしまうのは確実だ。なんて、ヒチョルが珍しく、どうしたら良いのか、判断がつかないままでいると、ドンヘのご主人様は公園の中に入らずに、そのまま立ち去ってしまった。

「え?!いや、待って!!」

このまま去られてしまったら、二度とドンヘに会う事が出来ない。慌てたヒチョルは、気が付くと無意識のうちに、ドンヘのご主人様の腕を掴んでいた。

「‥‥‥っ、あ、いやっ、そのっ!!」

「‥‥‥」

ヒョクは突然腕を掴まれてしまって、思わず人間だった時のドンヘの行動を思い出してしまった。思わず口からからドンヘって出掛けてしまって、慌てて口をつぐんでしまったから、何もリアクションを取る事が出来ず、お互いに気まずい雰囲気が流れてしまう。俺の腕を掴んできた男性は、ものすごく綺麗で、パッと見た感じ女性にも思えるような中性的な雰囲気を醸し出していた。なんか動物に例えるなら猫っぽいっていうか。うん、俺の知り合いには、絶対にこんな人はいない筈だ。
気が付くとヒョクは、観察するようにマジマジとヒチョルの事を見ていた。ヒチョルも、その痛いヒョクの視線の意味に気付いてしまったから、掴んだ手を離す事が出来ずに、その場で硬直してしまう。絶対に怪しまれている。そう思ったヒチョルは、あまりにも混乱をしてしまって、いきなりドンヘの事を聞いてしまったんだ。

「あの‥‥‥ドンヘは、元気ですか?!」

何時もは冷静で、慎重派のヒチョルらしくないケアレスミス。だって、そもそもドンヘのご主人様にしてみたら、俺が何者なのか全くわからないというのに。どうして俺は先走って、ドンヘの名前を出してしまったんだろう。じろじろと観察されてしまった事に対して、どうにかして状況を変えたいと思った筈の行動が、全くの裏目に出てしまい、ヒチョルは思わず俯いてしまった。今、この瞬間程、イトゥクの気転の良さにすがりたいと思う事は無い。
ヒチョルはとりあえず、相手のリアクションを確かめようと思い、おそるおそる相手の顔色を窺う。すると、俺が何かいけない事を聞いたのだろうか、解りやすくドンヘのご主人様は、何かに動揺しているようで、表情が硬くなっていた。どうやらドンヘのご主人様は、ドンヘと同じで思っている事が素直に顔に出てしまう性格をしているらしい。

「きみは‥‥‥ドンヘの事、知ってるの?」

とはいえ、これ以上何か変な事を口走ってしまうのも良くないと感じたヒチョルは、何処から切り返せば良いのだろうかと考えていると、ドンヘのご主人様が小さい声で答えてくれた。もう流石に失敗できないと思ったヒチョルは、丁寧に言葉を選んで答える。

「いつもこの公園で、一緒に‥‥‥遊んでました。毎日来ていたのに、ここ最近、全然顔を見せてくれないから‥‥‥」

「‥‥‥そうなんだ」

「ドンヘ、もしかして何か悪い病気にでもかかってしまったんですか?」

考えられる推測を言葉にする。そして、ドンヘのご主人様のリアクションを確かめようと、思い切って顔を上げた瞬間、ヒチョルは固まってしまった。ヒョクの表情は固まったまま、焦点が定まらずに虚ろになっている。少なくとも、俺の顔なんて1ミリも見ていない。今、彼は一体何を見ているのだろう。そして、その事はヒチョルにある事を確信させるのに十分だった。

ドンヘが公園に来ないのは、ドンヘの身に、何かが起こっているからだ。

「俺、やっぱりドンヘの事‥‥‥何も解っていなかったんだな」

小さい声で呟いた言葉を、ヒチョルは聞き逃さなかった。ふらりと何かに取りつかれたように、足取りが重くなってしまったヒョクは、もうヒチョルの事なんて忘れているようで、振り返るとそのまま公園から去っていった。

ドンヘの口から、お友達が出来たなんて聞いたこともない。やっぱり俺は、ドンヘのご主人様として失格なのかもしれない。ダメだと解っていても、ヒョクの心はどんどんと悪い事を考えてしまう。気が付くとヒョクは、目の前にいるヒチョルの事なんて全く視界に入らなくなっていたし、彼が何者で「何で俺がドンヘの事を知っているのか」なんて疑問に、全く気付く余裕がなかった。
ハッキリと意識を取り戻した時、ヒョクは自分の家の前に立っていた。ドンヘが何時も行っている公園に行けば、犬から人間に戻るためのヒントが見つかるかと思っていたけれど、自分にとってマイナスの収穫があまりにも大きすぎて、今のヒョクには全てを受け入れる心なんて持ち合わせていなかった。

「ドンヘ‥‥‥」

とりあえず、ドンヘは元気にしているかな。ちゃんとご飯は食べているかな。今日はもう家に帰ろう。そう言い聞かせて、ヒョクは大切な事と向き合う事が出来ないまま、自分の部屋へと帰っていく。
猫に戻ったヒチョルは、ヒョクの後をつけていた。ドンヘのご主人様の状態を見ていたら、人間のままでも十分にバレないだろうという確信はあったけれど、一応何かあった時の為に、対策を打っておくに越したことはない。何時も以上に慎重に後をつけていたおかげで、ドンヘの家を知る事が出来たのは、ヒチョルにとって大きな収穫だった。でも、ここから先に取るべき行動で悩んでいた。
ドンヘの部屋に乗り込む!と、いうのは当然ながら良くない選択だというのは、ヒチョルでも理解している。でも、ドンヘが心配でたまらないという気持ちが前に出過ぎてしまって、これ以上ここにいたら、冷静な判断が出来なそうだ。そう思ったヒチョルは、イトゥクから貰った携帯電話を取り出した。日本語がまだよく解らないヒチョルは、簡単な単語をメッセージで送る事は出来ても、細かい説明をダラダラと打つことは出来ない。だから、たった一言だけ「助けて」と打って送信ボタンを押す。
すると、相当イトゥクを焦らせてしまったらしく、仕事中なのにも関わらず、電話が掛かってきた。ものすごく不謹慎なのに、何だかイトゥクの行動が嬉しくなってしまったヒチョルは、誰も居ないのに涙ぐんでしまい、必死に我慢をしながら電話で事のいきさつを話した。

 

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