だって、本能が。

「ドンヘ‥‥‥ただいま、わっ、わっ!!」

足音でヒョクが帰って来たというのが解っていたドンヘは、玄関の前でしっぽをフリフリさせながら、今か今かとヒョクが玄関を開けるのを待っていた。鍵が開いて、ヒョクの顔が見えると、心がパッと明るくなって、気が付くと夢中でヒョクに擦り寄っていた。

おかえり、俺、良い子にしてたよ!!早く、いいこいいこして!!

甘ったるくて、ちょっと癖になるドンヘのバカウルサイ声が聞こえてこないのは、少しだけ寂しいけれど、言葉が無くてもドンヘが何を今思っているのかというのは、自然と伝わってくるから不思議だ。ヒョクが右手を伸ばして、ドンヘの頭をポンポンと優しく叩く。その後に、毛をくしゃくしゃってすると、えへへ。って笑顔を見せてくれた。
ドンへが犬に戻ってから数日。俺の気のせいかもしれないけど、ドンへがどんどんと犬っぽくなっている気がする。いや、もともと犬なんだから、「犬っぽく」というのはおかしな話なのだけれど。

「なぁドンへ、今日な、お前の友達に会ったよ」

ものすごくキレイで、まるで女の人みたいだった。ドンへ、誰だか知ってるか?そう問いかけながら、もう一度優しく頭を撫でると、ドンへは小さい声でくぅ。と鳴く。曖昧でわからないけれど、ドンへの心の片隅に、彼の記憶はあるのだろうか。
おかしい、おかしい、こんな筈じゃないのに。あの日から俺の心がおかしくなっている。公園の裏の山で出会った、格好良い男性に今日出会ったキレイな男性。ドンへに関わる人全てに、何故か俺は嫉妬している。ドンへはもう犬になって、彼らとはもう一生会う事も無いはずなのに。

「‥‥‥あれ?おかしいな、何で?」

ヒョクの瞳から、ポロポロと涙が溢れて、零れ落ちていく。こんな事をしても、ドンへのためにならないのは、俺が一番解っているのに。いつから俺は、こんなにも欲深くなってしまったんだろう。自分の心の狭さに嫌気が刺して仕方ない。

「‥‥‥くぅ」

ヒョクの涙を見て、ドンへの瞳も自然に潤む。そして、俺はヒョクの傍にいるよって、小さく願いながら、そっとヒョクの頬を舐めた。ドンへの舌がざらざらしていて、頬を舐められるとかなりくすぐったい。ヒョクがごめん。もう、大丈夫だからって言ってるのに、解っていてわざとやっているのか、これ以上舐められたら俺の顔はドンへの唾液まみれになってしまう。何だろう、この甘ったるい感じは。なんだかドンへが人間に戻ったようだ。
ヒョクがいつもの優しい笑顔で、ドンへの頭を優しくなでると、ようやくドンへも安心したのか、ほっとしたような表情を見せた。

「‥‥‥キャン!!」

‥‥‥のも束の間、ドンへが何かに驚いたような叫び声をあげて、ソファの下に突然逃げ込む。ヒョクがどうしたんだろうと思って、ドンへの名前を呼ぼうとした瞬間に、部屋のインターホンが鳴った。こんな時間に一体誰だろう。ヒョクが頭の中で郵便物かなと考えながらドアを開けると、そこには意外な人物が2人も立っていた。

「‥‥‥え?」

今日公園で会った、初対面のキレイな男性と、先日ドンへと一緒に居た格好良い男性。俺は彼らの名前すら知らないのに、どうしてこの人たちは俺の家を知っているのだろうか。もしかして、ドンへが部屋に連れてきたことがあるとか?いや、流石にそこまでしていたら、俺に何か一言くらい話していてもおかしくない筈だ。
流石の展開に、ヒョクが分かりやすく眉間にしわを寄せて、ものすごく怪しい目で2人の事をじっと見つめる。イトゥクがさて、どうやって説明をしたら一番スマートなのだろうかと考えていると、そんな考えもぶっ壊すような行動をヒチョルがしてしまった。

「‥‥‥っ、ドンへ!!」

犬に向かって、はっきり「ドンへ」と叫んだヒチョルは、他人の家なのにも関わらず、勝手に部屋に入り込んで、ソファの下に手を突っ込んでドンへを引きずりだしてしまったんだ。
ネコの本能?ドンへはがっしりと尻尾を捕まえられ、まるで魚を生け捕ったかのような状態で、ヒチョルに捕獲される。尻尾が切れるんじゃないかといった体勢でブラブラしているドンへは、ヒョクも初めて聞く程の叫び声でぎゃあぎゃあと鳴きわめき、イトゥクの叫び声で、ヒチョルもようやく我にかえった。

「あ‥‥‥」

イトゥクの顔が真っ青になり、ため息をつきながら片手で顔を覆う。ヒョクはもう、何が何だか解らなくて、とにかく宙ぶらりん状態のドンへをヒチョルから救出するけれど、パニック寸前で、このまま倒れてしまいそうだ。

「あ、あの‥‥‥あなた達、一体何者なんですか?」

ヒチョルがヒョクの部屋の隅で小さくなり、正座をしている。だって、この非常にややこしい関係を収拾するために、わざわざ仕事をしているイトゥクを呼んだっていうのに、見事に自分が余計ややこしくしてしまったんだもの。何時もは冷静で、何事にも動じないイトゥクも、まさか自分の飼い猫がここまで破天荒な行動をするとは予測も出来ない。仕事以上に難しい「仕事」だと我ながら思う。いや、仕事なんて思ってはいけないのだけど。

「もう、あれこれ考えるのはやめます‥‥‥ヒチョル!!」

ぼそっと一言つぶやいた後、イトゥクは鋭い視線でヒチョルを真っ直ぐに見つめると、右手で軽くちょいちょいと手招きをする。ヒチョルはもう、その場でものすごく怒られるんじゃないかって思うと、かなり身構えてしまうんだけれど。イトゥクの拒否出来ない雰囲気に圧倒されてしまい、大人しく指示に従うしかなかった。

「‥‥‥ネコに戻って」

「え、でも‥‥‥」

「大丈夫、これ以上状況が悪くなることはないから」

さらりと天使のような笑顔で、えぐい事を言われると、ヒチョルはもう、何も反論する事が出来ない。こうなったらもう、イトゥクの事を信じよう。信じるしかないと願いながら、ヒチョルはヒョクとドンへの前で、ネコの姿に変身をした。ネコっぽい男性は本当にネコだった。なんて、頬を思い切り抓ったら、実は夢だったなんてオチにならないだろうか。ヒョクはもう、色んな現実を目の当たりにして、完全に消化不良だ。でも、これで1つだけ解ったことがある。それは‥‥‥

「‥‥‥すみません!!」

「え?!」

「いや、本当はきちんと順序を立てて説明をしたかったんです‥‥‥けど」

イトゥクが頭を下げたあとに、じっとヒチョルを見つめるから、ネコに戻ったヒチョルはサッと物陰に隠れてしまった。その姿があまりにも可愛くて、気が付くとヒョクは2人に対する警戒心が無くなっていた。

「いえ、大丈夫です。正直言ってまだ混乱していますけど‥‥‥ははっ、お互い大変ですね」

この2人は、俺とドンへと同じで、ご主人様とペットの関係だった。心のモヤモヤが少し取れていくのが自分でも解る。へへって、小さい笑みを作ってイトゥクに向けると、イトゥクも緊張が解けたのか、優しい笑みを浮かべてくれた。改めてお互いに自己紹介をして、ドンヘとヒチョルの話をする。どんな出会いだったのか、いつから人間になったのか。まさか、同じ境遇の人に会えるなんて思ってもいなかったから、話が弾んでしまい、気が付くとあっという間に何時間も経過していた。

「なぁ‥‥‥ドンへ、ごめんって」

「‥‥‥」

俺たちのご主人様は、ほんの数分で一気に打ち解けたというのに、ヒチョルとドンへは、さっきから何も会話が無かった。たとえ無意識だったとはいえ、無理やり尻尾を掴んで、痛い思いをさせてしまったという反省から、いつもの強気の態度を出すことが出来ず、ドンへ相手でも顔色を窺っていたんだけれど。
流石にもう限界で、少し怒り口調になると、ヒチョルはドンへの前に立って、大きな声でドンへ!って叫ぶ。当然ながら、ネコとイヌに戻っている2匹の会話は、人間には伝わることはない。にゃあにゃあ言ってるけれど、ご主人様たちは自分たちの話に夢中だ。

「ドンへ、いい加減、何か一言くらい言えよ!!謝ってるだ‥‥‥」

「くぅ‥‥‥ぅ」

「‥‥‥ドン‥‥へ」

ドンへはずっと、ヒチョルの顔を見る事はなく、窓の外を眺めていた。

 

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