神様。

ドンへの身体から煙が出たわけじゃない。ボワンって音が出たわけでもない。まるで、最初から「ドンへ」なんて居なくて、全てが俺の妄想だったんじゃないかっていうくらい自然で、気が付くとヒョクの目の前からドンへは消えていた。嘘だろ、だれか夢だって言ってくれよ。せっかく、ドンへが人間の姿に戻ったっていうのに。今日は一体どれくらい「夢だったら」という出来事が起こるのだろう。寝て目が覚めたら、明るくて無邪気な声で、ドンへが起きて!!って叫んでくれるかな。今日一番の強い思いが、ヒョクの胸を締め付けると、自然と涙が溢れてくる。

呆然とその場で立ち尽くしていると、携帯電話が突然鳴り出して、現実だという事を思い知らされた。震える右手で、ディスプレイを見ると、さっき電話番号を交換したばかりのイトゥクさんだった。

「‥‥‥はい」

「ウニョク君?あ、イトゥクだけど!!」

「あ、イトゥ‥‥‥クさん」

電話の相手がキュヒョンやソンミンだったら、涙をこらえなくてはいけない。でも、精神的にそんなことは出来そうにもない。だから、電話の相手がイトゥクさんで本当に良かった。だって、この事実を隠す必要なんてないのだから。ヒョクが必死に涙をこらえようとするんだけれど、相手に安心しきってしまい、なかなか思いを声にする事が出来ない。何か一言でも発してしまえば、それが引き金となって、涙がボロボロとこぼれてしまうだろう。

数秒の沈黙、それを破ったのはイトゥクだった。

「もしかして、ドンへ君の身に何か起こった?実はヒチョルが‥‥‥」

ありがとう

ヒチョルの意識の中に、ドンへの声が聞こえてきて、無意識のうちにヒチョルはドンヘって叫びながら振り返っていた。既に家に帰っていて、当然だけれどドンヘなんている訳がない。あまりにも大きな声で叫んだから、イトゥクもキッチンから顔だけを出して、不思議そうにヒチョルの事を見つめている。

「ヒチョル‥‥‥どうしたの?」

「何でも‥‥‥っ、いや、イトゥク!!」

ヒチョルは嫌な予感がして、夕食を作っている最中のイトゥクに無理を言って、ヒョクに電話を掛けてもらった。ヒチョルの真剣な眼差しを受けて、イトゥクが慌てて電話を掛けると、ヒョクの声が擦れている。もう喋らなくていいよって言ってやりたい位の小さい声で、それでも一生懸命イトゥクに話し掛けようとするから、イトゥクは居てもたっても居られなくなってしまった。
どうしようもないくらい精神的に追い詰められると、独りになりたくなる。でも、今のヒョク君は、絶対に独りにさせたらいけないような気がして、慌てて車を出してヒョク君の家まで向かった。

一緒に家で夕飯でも食べよう。今日は泊まっても構わないから。電話越しでは、その言葉を言うのが精一杯だったけれど、ヒョク君も涙を流しながらも、うんって言ってくれたから良かった。ドンへ君に良くないことが起こっているのは確かだ。だからこそ、俺は冷静で居なくてはいけない。

「ヒチョルは部屋で待ってる?」

「嫌だ、俺も行く‥‥‥うわっ!!」

「ヒチョル?」

「いや、大丈夫‥‥‥やっぱり、俺は部屋で待ってる。その方がヒョクさんもイトゥクに色々と話が出来ると思うから」

イトゥクが解ったと言って、部屋を出たのを確かめた後、ヒチョルは深呼吸をして大きな声でドンヘって叫んだ。防音設備が整っていなかったら、隣近所からクレームが来てもおかしくないくらいの大きな声。音が振動となって物に伝わって、室内の空気がピリピリと震える。

「ドンヘ、隠れてないで出てこいよ!!今、俺の服を引っ張ったの、お前だろ?」

ヒチョルの声に圧倒されてしまったドンへが、カーテンの隅から涙目でこっそりと現れた。人間の姿をしていたから、ヒチョルは思わず嬉しくなってしまい、そのままの勢いで、つい何時ものコミュニケーションで足が出てしまう所を必死に抑えるんだけれど。

 

っていうか、何でお前が泣いているんだ?!泣きたいのはこっちだろ!!

 

感動?の再会も束の間、また勢いよく首根っこを掴まれたように服が引っ張られて、ヒチョルは思わずその場に尻餅をついてしまった。何するんだよって、ドンヘに文句を言ってやろうと振り返ると、いつの間にか辺りが真っ白になっていて、イトゥクの部屋から何処か解らない場所に移動していた。

「なん‥‥だよ、これ」

「ヒチョル‥‥‥」

真っ白な空間の真ん中に、ぽつんと独りで座っているドンヘを見つけて、ヒチョルは慌てて駆け寄るんだけれど、あと少しって所で、透明な壁が邪魔をしてドンへに近付く事が出来ない。しかもよく見ると、ドンへの右足首には、大きな足かせがついている。

「おい、ドンヘ!!何だよ足のソレ!!」

「ちが‥‥‥違うの」

 

「あれ?思っていた以上に、君たち2人の心は繋がっているんですね」

 

ドンへの言葉を遮るようにして、空間の中に突然もう一人男性が現れる。あまりにも気配を感じなかったから、ヒチョルは驚きのあまり、心臓が飛び出そうになってしまった。もしもコイツが、ドンヘを閉じ込めている犯人だとしたら、下手に近付いたら、俺も捕まってしまうかもしれない。解りやすくヒチョルが威嚇をすると、男性はニッコリと笑顔を見せる。

「安心してください。別にあなたを捕まえて、何かしてやろうとか、全く思っていませんよ」

「‥‥‥そんなの、信用出来るかよ」

「私の名前はキュヒョン。そうですね、世間では天使とか、神様とか言われていますけど、私としては天使の方が響きが可愛いから好きですね」

「か、神様‥‥‥ってことは、俺たちを人間にしてくれたヤツか?」

キュヒョンが右手を上げると、ヒチョルの身体がふわっとなって、猫の姿に戻る。そして、指を軽快にパチン。と鳴らすと、人間の姿になる。キュヒョンがヒチョルの性格を把握しているからこそ、下手に説明をするよりも、力を見せる事で自分の事を証明してみせる。悔しいけれど、どうやらこのチャラチャラしているヤツが神様というのは本当らしい。でも、ヒチョルは一向にキュヒョンに対する威嚇を止めなかった。だって、俺たちの人間になりたいという願いを叶えてくれた神様が、今度は一体どうしてドンヘを拘束しているのだろうかと思ったから。

「2人の心が繋がっているのなら、間に合うかもしれない」

「間に合うって‥‥‥何だよ」

 

「ドンヘをあのように拘束しているのは、私ではありません」

 

「じゃあ、一体誰がドンヘをあんな風に拘束しているって言うんだよ?!」

相手が神様だと解っていても、ついつい口調が荒くなってしまうのは、ドンへの事を心から心配しているから。だからキュヒョンも、態度が悪いとか特別に感じる事は無かった。いやむしろ、こんな風に言われる経験も立場上あまり無いので、楽しくて仕方ない。ドンへがこんなことになっているというのに、我ながら不謹慎だなとすぐに思い直したキュヒョンは、軽く咳払いをして、話を続けた。

「そうですね‥‥‥まず、根本的な原因はドンヘとウニョクの2人にあるんです」

「ドンへが、自分から望んであんなのを付けたって言うのか?」

「ウニョクが自分の心の中で思っていたことを、正直にドンヘに話した。それで、全てが解決する筈だったんです‥‥‥でも」

大きなため息をついたあと、ゆっくりと、はっきりとした口調でキュヒョンは続けた。

「あの瞬間、ドンへの耳元で、悪魔のように囁いたヤツがいる」

「悪‥‥‥魔‥‥」

「ドンヘはものすごく素直で良い子だから、そいつの囁きにのまれて、自分が悪いって思い込んでしまったんです。このままだと‥‥‥」

キュヒョンが言葉を続けようとした瞬間、世界が180度ひっくり返って、まるで船酔いになったかのような気持ち悪さがヒチョルを襲う。めまいが酷くて、目の前が一気に真っ暗になる。すると、また急に首根っこを掴まれたような感覚で、今度は確実に何者かに現実に引き戻されているんだって気付いてしまった。

「な、んだよ、離せ!!俺はまだ、話をして‥‥‥っ」

 

「邪魔‥‥‥しないでくれる?」

 

氷のように冷たい声が、ヒチョルの耳元で囁かれる。背筋が凍ると言うのは、まさにこの事を言うのだろう。気が付くとヒチョルはイトゥクの部屋に戻っていた。慌てて時計を確認すると、まだ数分も経っていない。つまり、イトゥクはまだウニョクさんを車で迎えに行っている途中だという事だ。

早くこの話を2人に伝えなくてはいけない。

 

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