追い掛けて。

「イェソン兄さん!ソンミン来てますか?!」

つい数十分前に、兄さんに心を読まれて酷く傷付いたとか何とか言いながら、お会計をしないで出て行ったヤツが戻ってきた。本来ならとっ捕まえて、鼻の下を愛でながらお金を頂くところなのだが、あまりにも真剣な表情だったので、流石にそんな気分も何処かにいってしまう。

「いや、来てないけれど‥‥‥ソンミンは居なかったのか?」

「‥‥‥」

「よし、俺も一緒に探しに行こう」

ソンミンの心を傷付けた本人を目の前にして、ネガティブな話は出来る限り避けたい。何時もはお調子者のイェソンだって、人を気遣う心くらいは持ち合わせている。今日はお客も居ない事だし、片付けは明日の朝にする事にして、玄関に「CLOSE」の看板を出すと、取り敢えずキュヒョンをカウンター席に座らせる。
こんなにも動揺をしているキュヒョンを見るのは初めてかもしれない。何時もだったら冷静に、先に状況を分析してから行動をする筈なのに、頭より先に取り敢えず行動をしなくちゃと思い違いをしているようだ。イェソンが両手で思い切りキュヒョンの両頬を叩く。パチンと音が響いて、一瞬呆然とするキュヒョンに、イェソンが優しく声を掛けた。

「キュヒョン、焦るのは解るがお前らしくないぞ。ソンミンの居場所が解らないのなら、尚更先に頭を使ってくれ」

「‥‥‥はい」

「行動をするのは、それからだ」

グラスに水を注いでキュヒョンに渡すと、喉が渇いていたのだろう、一気に飲み干して、豪快にグラスを置く。でも、そのお陰で少しは冷静を取り戻してくれたようだ。キュヒョンが探偵の様に右手を顎に軽く乗せると、何かを考えるようにして目を閉じる。あとはもう、キュヒョンが答えを見つけるまで、イェソンは静かに待つだけだった。

「あれ‥‥‥ここは?」

頭の中に変な声が聞こえてきて、俺でも動物を人間にする方法があるよって言われた瞬間、急に意識が無くなって、気が付くと俺は、あの保健所の前に立っていた。人間よりも敏感に人の気配を察する事が出来る動物たちが、ソンミンの気配を感じたのだろう。苦しいほどの鳴き声と一緒に、心の声が一気に湧き上がってくる。こんな感情を一気にぶつけられたら、本当に意識を失ってしまいそうになる。

怒りや悲しみの感情は、一人だって果てしないのに、それが何十倍ものに膨れ上がって攻撃されたら‥‥‥

「‥‥‥いました。ソンミンは今、人間界にいるみたいですね」

「人間界だと?こんな時間にか‥‥‥バレたら大変じゃないか」

「はい、でも‥‥‥俺、行ってきます」

仕事以外で人間界に降りるには、原則として許可が必要だ。それに伴う手続きも、事前にきちんと行う必要がある。今現在、特に人間界に降りる仕事が無いソンミンは、つまり重大な違反をしている事になる。キュヒョンが今から特例で人間界に降りる手続きをしたら、勝手に人間界に降りているソンミンの事がバレてしまう。上級天使にとってかなり危険な事ではあるが、友達を追い込んでしまったのが自分である以上、ここはもう覚悟を決めるしかなかった。
心を読まなくても、行くなと言っているのが伝わってくる兄さんの気持ちを汲んだ上で、キュヒョンが真剣な眼差しを向けると、イェソンも覚悟を決めたようで、小さなため息をつく。一緒に人間界についてきてもらったら、それこそ兄さんに迷惑が掛かると思ったから、お店で待ってもらう事にした。
天使は親友や恋人など、お互いに心を許している関係であれば、意識をたどって居場所を特定する事が出来る。でも、この行為は相手の心を読むのと同じで、相手のプライバシーに関わる事だから、絶対にやってはいけないというルールがある。正直言って、ソンミンにキライとか念じられちゃったもんだから、てっきり拒まれて意識を辿れないかもしれないって思ったけれど、何とか通じる事が出来て良かったと思う。それにしてもソンミンの意識が小さいのが不安で仕方ない。そう、まるで死にかけているような‥‥‥

キュヒョン‥‥‥助け‥‥て‥‥

人間界に降りてしばらくした頃に、不意に頭の中にソンミンの声が聞こえてきた。助けて。ソンミンの声がものすごくか細くて、キュヒョンの心に一気に不安がのしかかる。

「ソンミン、どうしたんですか?!直ぐに行きますから、待ってて‥‥‥」

あれ、もう気付いちゃったの?じゃあ早くしないといけないな

「‥‥‥っ、誰、ですか?」

ソンミンの声だけれど、明らかに違う口調で何者かが突然キュヒョンに話し掛けてきた。キュヒョンは一瞬戸惑うんだけれど、兄さんにさっき言われたことを思い出して、冷静さは欠かないように、一生懸命頭を使って考える。ソンミンの声を使って話し掛けてきているという事は、何者かがソンミンの身体を操っているという事だ。つまり‥‥‥

うん、正解。俺はね、ソンミンの願いを叶えてあげただけだよ。嗚呼、でもほら、早く来ないと、何もかも間に合わないかもしれないね。

 

俺が試験に合格して、上級天使になったら‥‥‥

 

ソンミンの願い。その言葉を聞いた瞬間、キュヒョンは背筋がぞくりとした。

ソンミンの意識を追いかけて辿り着いた場所は、何処かの保健所だった。でも、此処は本当に保健所なのだろうか?そして、ソンミンが話題に出していた場所なのだろうか?建物全体から奇妙な雰囲気と違和感が溢れていて、キュヒョンは中に入る事を思わず躊躇ってしまった。

「‥‥‥廃墟、では無いですよね?」

そう、動物たちの心の声が一切聞こえてこないのだ。普通だったら、何処の保健所であったとしても、人間が近付けば動物たちが一斉に叫び出す。どれだけ心を読まないようにセーブしても、何十何百の想いが心の壁を打ち破ってくるから、まともに受け止めてしまったら心が壊れてしまいそうになるんだ。動物に対して、あまり感情移入をしないように訓練をしている上級天使でも、心を崩されそうになるからこそ、保健所は絶対に何の理由もなく立ち入ってはいけないという厳格なルールが敷かれている。
キュヒョンが取り敢えず建物の周辺を探してみようとあたりを見渡していると、建物の中からコツコツという、キレイな足音が響いてきた。

「あ、来てくれたの?キュヒョン」

「ソンミン、大丈夫ですか‥‥‥っ!!」

ニッコリとした笑顔で、優しくキュヒョンと名前を呼んでくれるソンミン。一見すると、何時ものソンミンの様に思えるけれど、その笑顔が不自然なくらい眩しすぎて、嫌な予感しかしない。ソンミンが薄暗い建物から出て来て、街灯の光を浴びると、全身が血まみれで、キュヒョンは思わず後ずさってしまった。いやまさか、考えたくはないけれど、この保健所全体の違和感とソンミンの血は‥‥‥

 

「‥‥‥間に合わなかったね」

 

助けて、助けて、助けて、沢山の声に囲まれて、意識が遠のいてしまいそうになった時に、頭の中にまた声が聞こえてくる。

ソンミン、大丈夫だよ‥‥‥俺を信じて、中に入ってきて

心の声が脳裏に響き渡ると、嘘みたいに助けてと叫ぶ声が聞こえなくなって、ソンミンは耳を塞いでいた両手をゆっくりと離す。すると、ひとりでに建物の入り口のドアが開いて、驚きのあまり叫び声をあげてしまった。どうしよう、中に入ってきてって言われても、怖いのが大嫌いだから、足が動かないよ。こんな時に、キュヒョンが隣にいてくれたらいいのに。
ソンミンが無意識の内に、キュヒョンに助けてって念じると、タイミング良くキュヒョンも俺のことを考えてくれていたのか、直ぐに返事が心の中に流れてきた。

ソンミン、どうしたんですか?!直ぐに‥‥‥

大丈夫、俺がソンミンの事を守ってあげるから、信じて入ってきてよ

キュヒョンの声が心の声に掻き消されて、小さくなっていく。それと同時に、何処からか強い風が吹いてきて、まるで早く中に入れと言わんばかりに身体が前に押されてしまった。そうだよ、キュヒョンとは喧嘩をしたばかりだし、あんな風に心配なんてしてくれる訳がない。俺の思い違いだよね。それに、ここでまた人間界に居るなんて事がキュヒョンにバレてしまったら、怒られるどころじゃ済まないかもしれないんだ。

ソンミンは覚悟を決めて、大きな深呼吸をすると、ゆっくりと建物の中に入っていった。

建物の中に入ってソンミンは直ぐに後悔をする。だって、例え心の中に響いてくる声が守ってあげるって言っても、独りである事に変わりは無いんだもの。こんな時にキュヒョンが居てくれたら、怖いんですか?とか馬鹿にしつつも、しっかりと俺の後についてきてくれるのに。なんて、俺ってば一体どうしたんだろう。自分から喧嘩を売った癖に、ここに来てものすごくキュヒョンの事を求めているなんて。

ソンミンは、キュヒョンの事が好きなの?

「へっ?!‥‥‥あ、そのっ‥‥‥」

心の中に響いてくる声は、ただ黙っていただけで、ソンミンの中にいる。だから、ソンミンの想いや葛藤は全て手に取るように感じる事が出来ていた。だからこそ、ソンミンの心を完全に自分に向けるために、残酷な言葉を呟いた。

でもさ、こんな時間に勝手に人間界に来るなんて、上級天使のキュヒョンが聞いたらどう思うかな?

「‥‥‥っ」

もう一生、口なんて聞いてもらえなくなるかもね。でもね、大丈夫だよ‥‥‥

俺は、ソンミンの味方だし、ずっとずっと一生傍に居てあげるから。今まで以上に大きくてイヤな声が、身体全体に響き渡って、ソンミンは背筋がゾクリとした。最初こそ、ものすごく助けを求めているような雰囲気で俺に話し掛けていたけれど、これはもう間違いない、俺のことを利用して何か良からぬことを考えているんだ。早く振り返って建物から出ないと、それこそもう二度とキュヒョンに会えないかもしれない。ソンミンはここに来て、ようやく自分自身が酷く軽率な行動をしている事に気が付いた。
どんな罰を受けても良い、もうキュヒョンに友達じゃないって言われても良い。それでも、キュヒョンと二度と会えなくなるくらいなら、嫌われても良いから同じ「天使」でありたい。ソンミンがその場に立ち止まると、思わずポロポロと涙が溢れてきてしまった。そして、何かを決心したように、真っ直ぐに前を見据えると、心の声を受け入れないように、心の壁を出来る限り厚くする。どんな甘い囁きにも反応しないようにして、そっと振り返る。大丈夫、まだそこまで奥に進んでいる訳じゃない。今だったら、逃げ出す事が出来る。ソンミンが覚悟を決めて歩き出そうとした瞬間、後ろから誰かに思い切り抱き締められて、ソンミンは思わず大きな声で叫んでしまった。

「良かった、こんな所に居たんですね。探したんですよ?」

「‥‥‥キュヒョン?嘘、どうして?」

「ソンミンの心の声が途中で途切れたから、不安になって直ぐに追いかけてきたんですよ」

途中で途切れたというのは、間違いなく心の声が邪魔をしてきた時の事だろう。嗚呼、それよりも、キュヒョンが俺のことを心配して追いかけて来てくれた。ソンミンはあまりの嬉しさに、一気に緊張感が解けてしまい、その場に座り込んでしまった。すると、普段は絶対に見せる事のない、ニッコリとした満面の笑みで、キュヒョンがソンミンの事をお姫様のように抱きかかえる。予想もしていなかった出来事に、思わずソンミンが驚きの声をあげると、仕方ないですね。建物から出るまでですよ?なんて、少しぶっきらぼうに言いながらも照れながら、スタスタと歩きだす。ソンミンは今日の行動は全て自分が悪い事ではあるけれど、束の間の幸せをかみしめるために、思い切りキュヒョンの事を抱き締めた。

「ソンミン‥‥‥着きましたよ」

「キュヒョン、ありが‥‥‥っ、ひあああっ!!」

気が付くと、ほんの数分ではあるけれども、意識が遠のいていたらしい。キュヒョンの声に起こされて、辺りを見渡すと、そこは建物の外ではなく、沢山の檻が並んでいる部屋だった。どういう事?って叫びながらキュヒョンを見ると、俺を抱きかかえて運んでくれたのはキュヒョンなんかじゃなかった。慌てて両手を突き出して、俺を抱きかかえている男の人を突き放すと、その反動で思い切り倒れ込んでしまう。派手に尻餅をついてしまい、直ぐには立ち上がる事が出来そうにない。でも、どうにかして此処から逃げ出さないと、大変なことになるって本能が叫んでいる。
ソンミンが尻餅をつきながらも、そのままゆっくりと男の人を見ながら後ずさりをすると、1つの檻にぶつかってしまった。その檻の奥から、一際鋭い眼光を持っている動物がいて、ソンミンは恐ろしさのあまり、身体が強張ってしまう。今、目の前にいる男の人から目を離したら、その隙に何をされるか解らない。でも、後ろから感じる視線も怖くて、どっちに集中をしたら良いのか解らない。身体の震えが止まらなくて、どうする事も出来ずにいると、

そんなに怖がらなくてもいいんだよ、嗚呼、やっと会えたね‥‥‥ソンミン。会いたかったよ。

檻の中から囁かれる声と心の中に響く声、そして、目の前にいる男の人の声がシンクロして、ソンミンは完全に囲まれてしまった。嗚呼、そうか、ソンミンが全てを理解した時には、何もかもが遅かった。檻の中からニュルリと両手が伸びてきて、優しくソンミンを抱き締める。その手が人間の手である事にも驚いたけれど、肌に触れる感触が、ソンミンが感じていた以上に温かくて、それがかえって辛くて苦しかった。

 

これからは俺とずっと一緒だよ。もう一生離さない。俺がずっとずっと守ってあげるからね。

 

遠のいていく意識の中で、ソンミンは何度も何度もキュヒョンにゴメンなさいって謝っていた。

 

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